前の記事はこちら。
折り返し時間を使って、宇野駅周辺を散策したいと思います。
まずは駅名標などをパチリ。
瀬戸内海を意識してか水色なのが良いですね。
続いて駅構内を観察。
宇野駅のある玉野市自体は宇高連絡以外の拠点性が乏しかったこともあり、対岸の高松駅や、似たような境遇であった「青函連絡船」の青森駅や函館駅とは異なり、瀬戸大橋駅開業後は状況が一変。
連絡船ありしころは、船積み用の線路や側線を多数有する要衝だった宇野駅も単なる盲腸線の終端駅へと成り下がり、駅自体も1面2線の櫛形ホームへ大幅縮小されるとともに再開発で移転したこともあり、かつての栄華はほとんど残っていません。
続いて駅舎内の様子。
ちょうど「瀬戸内国際芸術祭」の開催中だったこともあり、観光客の姿もそれなりにあって賑わっていました。
外に出て今度は駅舎をパチリ。
宇野駅舎は連絡船廃止後に建て替え・移転が行われており、この駅舎は1994年に建てられたものです。
現在は瀬戸内国際芸術祭に絡み駅舎自体がアート作品化されており、なかなか洒落たデザインになっています。
そんなこともあって、駅周辺にはアート作品が色々と点在。
芸術などという高尚な感性を持ち合わせていないワタクシですが、ちょっとした暇つぶしにはなりました(笑)。
続いては駅周辺を散策。
今回宇野駅へやってきた目的はアートでは無く、鉄オタらしく「宇高連絡船」の遺構を見物するためでございます。
てことでやってきたのは、駅から少し離れたこちらの遺構。
「なんだこのコンクリートブロックの残骸は?」とお思いになる人が大半だと思いますが、実はこれが数少ない宇高連絡船の遺構のひとつなのです (^_^;)
袂には説明板が立っていました。
先にも触れたように、宇野駅周辺は連絡船廃止後に大々的な再開発が行われ、連絡船関連の設備はほぼ全て撤去されてしまいました。
このコンクリがある場所も、まさに船が接岸していた桟橋だったらしいのですが、ここも現在は駐車場になっており、遺構の保存というにはあまりにも寂しく片隅にポツンと残置されているのです。
その横にはバースも残されています。
青函連絡船は航路廃止後、青森に八甲田丸、函館に摩周丸、さらに東京で羊蹄丸(2013年解体)と合計三隻が保存されましたが、宇高連絡船はそれとは対照的に海外へ売却または解体となり、一隻も保存されませんでした。
それもまた青函航路にくらべ宇高航路が地味な要因な気もします・・・。
宇高連絡船の廃止について触れていますが、あくまで廃止されたのは本州~四国を結ぶ国鉄(JR)航路の話であり、宇野港を発着するフェリー自体は残っています。
主に小豆島や直島といった瀬戸内海上に浮かぶ島々へのフェリーが運航されており、それらと岡山を結ぶ連接点としては現在も重要な役割を担っています。
また直島(宮浦)経由ながら、一応高松まで船で渡ることも出来るみたいです。
といった感じで宇野駅周辺の散策はこれにて終了。
ホバークラフトの一つでも保存されていれば違ったと思いますが、それももはや不可能なお話でございます。
宇高連絡船時代の遺構があまり残っていないのは事前に知っていたものの、思った以上になにも無かったのはガッカリでしたね・・・。
遺構見物を終えると時間はすでに17時半。
そろそろ本日のお宿へと向かわねばなりませんが、もともとの予定地であった山口県宇部市へ行けない以上、別のどこかで泊まる必要があります。
であれば岡山県まで来たならいっそのこと・・・というわけで、当初の計画からあまりにもかけ離れた場所へと向かうことにしました。
どこへ向かうかはバレていると思いますが(笑)それは次回の記事にて。